多賀城跡・多賀城碑(宮城県)|多賀城碑や東北歴史博物館をレポート

多賀城跡パンフ
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多賀城跡

奈良・平安時代に陸奥国府、奈良時代には鎮守府も併せ置かれた。

丘陵地の傾斜を利用し、高低差のある大規模な城であり、その幅の広い通路、階段などから、朝廷の威厳が示されたことが想像できる。

大和朝廷が中央政権制度の国家統一を目指し、東北の入り口として、この地を最重要拠点として、国府を置いたのだろう。大伴家持といえば、越中国府として万葉集にも歌われており知っていた。(実は私、富山県出身者なので、たまたま知っていただけ。)ここにも赴任していたとは知らなかったが、逆に、東北の方は越中国府のことは御存じないようだ。

東北歴史博物館

JR多賀城駅の南側に隣接している「東北歴史博物館」には、多賀城国府がおかれた当時のことについて詳しく説明されている。東北の人たちが国府(朝廷)に服従せず、何度も反乱を起こしていたことや、国府建物を焼き討ちして奪還したりと、阿弖流為のような英雄も出て、かなり手ごわい抵抗を見せた。

蝦夷(エミシ)

 律令期は華夷思想にならって、太平洋側のエミシを「蝦夷」、日本海側を「蝦狄」、薩摩隼人を「西戎」、南方諸島民族を「南蛮」と呼んだという。ちなみに、蝦夷の「蝦」は、エビまたはガマガエルの意味で蔑む表現である。

「多賀城国府」は、征服の拠点、そういうところだったのかと認識を新たにした。順路に沿って音声ガイドを聞きながら回るとタップリ1時間以上かかった。非常に詳しく、しかもわかり易かった。

多賀城碑

高さ248cm、幅103cm、762年建立。芭蕉は、この地を訪れ「碑」に出会い、根本理念である、「不易流行」:「詩的生命の永遠性と流動性は本来一つである。」を樹立した。芭蕉は奥の細道の中で、多賀城碑を「つぼ碑」として紹介している。青森県下北にある「日本中央の碑」でも、石碑を「つぼのいしぶみ」としている。

多賀城碑には、

都去ること(平城京からの距離):およそ1500里

蝦夷国界去ること(国界からの距離):120里

などが、彫り込まれている。これを見せられた時、当時の人はどう思ったか、そんな遠距離から絶大な力を持って支配しようとする朝廷を偉大だと思わせたかったか。都の支配する範囲が絶大に広いと印象付けさせたかったか。

日本三古碑

多賀城碑は、日本三古碑の一つ。他には、那須国造碑(栃木県)、多胡碑(群馬県)、いずれも奈良時代のものである。

神武東征

イワレヒコ命が大和へ侵攻した時、ニギハヤヒは従ったが、その弟ナガスネヒコは従わず、東北の地へ逃げたという話がある。これは、出雲の国譲りの話とよく似ている。「国譲りを迫られた時、大国主は直ぐに従ったが、タケミナカタは、相撲に敗れ、今の長野まで逃げたという話。

勝ったほうの側が作る話はこのように、自分にとって都合の良いように極端な表現にして話を作る、ということではないかと思う。

朝廷の支配に簡単には従わず、当時の国府であった多賀城を焼き討ちするなど、相当の抵抗を見せた東北人の根性や力強さを知ることができた。

JR多賀城駅から、徒歩で歩き回ったので、半日かかった。歩いて回る距離ではない。(反省)

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