百舌鳥古墳群(大阪府)|堺市歴史博物館とVR体験、造営の動機は?

VR体験のしおり
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はじめに

 百舌鳥古墳群は、大山古墳(仁徳天皇陵古墳)の他、堺市の2km四方の範囲に、大小合わせて約100期の古墳があり、古市古墳群の約10km西側に位置し、両方合わせて、堂々の世界遺産。

パンフレット

堺市市役所展望フロア―

 堺市役所の展望フロア―から、仁徳天皇陵などの全体像や位置関係を実際に見ることができる。見学フリー。

堺市役所

24F展望フロア―で、360度の展望が楽しめる。(眺望が広く、古墳は小さく見えてしまうので、やや迫力に欠けるが、生ではここからしか眺められないので、貴重。次の写真は、南側(仁徳天皇陵が見える)。

24階展望フロア―

古墳群航空写真①の仁徳天皇陵と、②の履中天皇陵は、実物はこんな感じ。

仁徳天皇陵

展望フロア―からの仁徳天皇陵

履中天皇陵

履中天皇陵

堺市歴史博物館

 仁徳店陵古墳の南側の大仙公園内にある堺市歴史博物館に行ってみた。

堺市歴史博物館

入館料は一般は通常200円のところ、土曜日に訪れたら、無料だった。

百舌鳥古墳群シアター

 10分余りで2作品を交互に上映されている。大型スクリーンに三次元のCG画像で、古墳群の雄大さを体験し、古墳群の概要を知ることができる。

仁徳天皇陵の築造には、試算によると述べ680万人、2千人/日で15年以上かかったという。エジプトのピラミッドの場合も、以前は奴隷に強制労働させたと考えられていたが、壁画の記録が解読され、公共工事で日当も支払われていたことが分かった。単に墓を作るだけに、多くの人を15年も、また古墳群全体では300年余りも継続して労働させることなどできない。財政が破綻してしまうと思う。

その他の展示物 

専業集団

須恵器・埴輪・銅鐸・頼兜・馬具などの製造を行う技術集団の住居跡が出土している。

U字型板状土製品

須恵器を焼く窯の入り口部分の部品が、韓国と同じものであることもわかっているという。

須恵器

弥生土器は、粘土をただ焼いただけのようなイメージを持っていたが、高い技術が既にあった。

石室の副葬品 鎧兜

 戦士の埴輪とそっくり。この写真の隣に、複製品があり試着できる。2kgほどあるが身に着けても違和感ない。当時はこの鎧を身に着け戦ったか、半島へ出兵の際に身に着けたか。ガラス玉:西アジアの文化が既に入っていたことにも驚き。当時は意外とダイナミックに世界との交流があったことがわかる。 

鎧兜

石室のレプリカ

 兵庫県高砂市石の宝殿の「竜山石」で作られている。

石室のレプリカ

石室、ロープをかける部分

石室の突起は、運搬時にロープをかけるためという。(今まで、突起のあるものはあまり見たことないけど...)

勾玉・首飾り

首飾り

三環鈴

 これは、天河神社の五十鈴だ!」と思ったが、ここでは「馬具」であると説明されていた。また、レプリカがあり、鳴らしてみた。「カラン、カラン」(この音からは、霊力が宿ったような神々しさや怪しさは感じない。)あっけらかんとしている。

 ネットで検索すると、朝鮮半島の伽耶で三環鈴が出土したという記事があった。これは、やはり「馬具」なのだろう。

三環鈴

三環鈴

銅鏡のレプリカ

なんとなく顔が映るが、新品では黄金色に輝き、太陽の光など反射させると、とてつもなく光り輝き、人々は恐れおののいたに違いない。

銅鏡

VR体験

VRツアー

VRツアー案内

思いの外感動した。約300m上空からの展望と360度のパノラマを楽しむことができる。約30分間で大人800円、十分に価値あり。

私は高いところが苦手なので、初めに一気に300m上がるときは、いい気持ちはしなかったが、薄目にして我慢した。上がってしまうと後は全く問題なく、爽快。築造当時の原野と古墳群が見渡せる。

前方後円墳の意味

 最後にドローンを円墳に下ろした。そこでは、多くの埴輪などが並べられ、埋葬者の魂がそこから天空へと飛び立つ滑走路になっている。(円墳部に並べられた鳥型の埴輪が、埋葬者の霊が天空に登り復活を願うという信仰を表している)その時、もし、前方部が本当の四角形なら遠くは狭まって見える(遠近法)が、鍵穴の形で遠くの幅が広いため、「方形」に見えた。先が狭まく見えないように、考えて作られたのではないか、と思った。

マナの壺説

 イスラエルの神宝(マナの壺、アロンの杖、契約の石板)の「マナの壺」を模したものという話がある。しかし、前方後円墳で「造り出し」と言われる両サイドの突起構造は、一部の古墳だけであり、「なんとなく似ているから」では根拠に乏しいのでは?

イスラエル王家の紋章

 16葉菊紋がイスラエルの王家の紋章として知られているが、日本皇室と共通しているとよく言われている。日本皇室のそれは、「十六八重表菊」と言われ、家紋に用いたルーツは鎌倉時代の後鳥羽上皇とのこと。しかし、もっと遡ると仁徳天皇の時代に菊が長生きの薬として入り、人気を集め好まれたらしい。(正式な記録には残っていない)日ユ道祖論の立場からすると、絶好のネタとなるかも。

築造当時の歴史背景

 展示には、周辺の遺跡の出土物や時代考察がされていて、時間余裕があれば何時間でも見ていられる。

古墳築造の担手

 朝鮮半島からの多くの渡来人がやってきた波があった。中国の三国の争いに敗れ東へのがれた人。更に遡ると、BC722年北イスラエル滅亡、BC586年南湯田王国滅亡。この時代から多くの難民が東方へのがれた。

半島から渡ってきた王家が大王となり、倭の五王の時代に、多くの人が高い技術と文化を携えて集団でやってきて、宅地や耕地、水路を造成しつつ、残土や川の玉石を盛土し、大土構造物を築造したのが古墳なのではないだろうか。

倭の五王

 武(雄略)、興(安康)、済(允恭)・・・古市

讃(仁徳または履中)、珍(反正) ・・・百舌鳥

倭の五王は九州にいたと思っていたが、間違っていた。倭の五王が活躍した時代は、大和政権の時でありその中心地は、古市・百舌鳥だった。(高槻の安満宮山古墳では、3世紀頃に魏から銅鏡百枚のうちの一部が出ている。)

築造年代

 奈良の古墳は、3世紀中~7世紀。古市古墳群は、4世紀中~6世紀中、百舌鳥古墳群は、5世紀中~5世紀後半に築造された。

奈良→古市→百舌鳥→奈良と、大和川を下流へ移動して、また戻った。新たに渡来する人たちの居住地を順に開拓したのか。

古墳時代の終わり

7世紀末頃には全国で、古墳時代が終わったのは、海水位の低下、土地の乾燥化、300~400年を経て、土地・耕地・水路が整備され、人太が暮らせるようになったから。それ以上、作る必要ががなくなったからと考えると、合理的である。

以上、世界遺産を満喫して感動したので、勝手な私見で暴走気味のレポートでした。

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