日本中央の碑(青森県)|奥の細道の「つぼのいしぶみ」か、石碑に刻まれた日本中央の意味は

日本中央の碑看板
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日本中央の碑記念館

 青森県下東北町の国道4号線に面した所にある。

しおり

「日本中央の碑」

 以前、本で知っていたが、偶然に通りかかり大きな看板が目に入ったので、寄ってみた。知識が曖昧で場所をよく知らなかったので、まさか、「日本中央」がここまで北の果てとは知らなかった。

保存館入口

中に進むと入口ドアがある

木造のこじんまりとした、新しく綺麗な建物。中に入ると、

建物中心に石碑

日本中央と刻印された石碑

建物のほぼ中央に、高さ約1.5mの石碑(吊るし柿を逆さにしたような形)が展示。

その石の真ん中に確かに「日本中央」刻まれているのが見える。その周りにに、資料が並べられている。

「つぼのいしぶみ」

「9世紀初頭、征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷征討の際、弓の筈(はず)で石に『日本中央』と掘り、建立した。」というもの。それが都に伝わり、歌枕とされた。

この石は、1949年6月に青森県東北町千曳で偶然に発見された。

中央の碑 説明文

パンフレットや、展示資料には、「日本中央」の「日本」は、「ひのもと」と読み、蝦夷地を指す呼び名で、大和政権の力が増し、蝦夷征討軍が北進するにつれ、その地は徐々に北へ追いやられた、と記載されている。

陸奥の最奥の地、「都母(つも)」で発見された石碑の、地名の発音が「つぼ」に変化したのだろう、とされていた。

坂上田村麻呂は当地に来ていない

またしかし、坂上田村麻呂は、現在の岩手県水沢付近までしか行っていないことがわかっており、もし、本物であても、坂上田村麻呂ではなく、次の征夷大将軍ではないかとのこと。

それと、ケチをつけると、千年以上たっても風化がほとんのない程の硬い石に、矢で文字を掘ったというのは、無理があると思うが、どうでしょうか。

有識者による鑑定

昭和25年、新たに歴史家による鑑定が行われた。4文字の外側にうっすらと、もう一つ4文字の彫刻を見ることができるという。彫った文字が消えそうになるころに、再度文字を彫刻したとなると、最初に彫った時期は、どれほど古いのか。少なくとも1200年~1300年前のものであろうとのこと。

また別の鑑定では、室町時代の頃の書体であるという。どっちがただしいのか?

多賀城碑

宮城県の多賀城跡にある「多賀城碑」も、「つぼのいしぶみ」と言われている。これは、松尾芭蕉が多賀城跡を訪れており、つぼのいしぶみであるとして、奥の細道で紹介したことによる。

利用案内駐車場から無量光院跡  3代秀衡公が京都宇治の平等院を模したものと伝えられている。調査によると、平等院よりも更に大きく、きらびやかであったという。この地に、都を恋しく思う気持ちを忘れようと、本物の平等院以上の極楽の世界を作り上げた

国道に面して、看板がすぐ目に入る。駐車場は広く無料、入館料も無料。

 名   称 日本中央の碑、つぼのいしぶみ、「日本中央の碑保存館」
 住   所 青森県北上軍東北町字家の下夕39-5
 入 館 料 無料
 拝観時期 2017年