【 もくじ 】
遺跡概要
- 遺跡名称 : 三内丸山遺跡、縄文時遊館
- 住 所 : 青森県青森市大字三内字丸山305
- 遺跡年代 : 5500ねんまえから1500年間
- 出 土 品: 遮光器土偶など多数
- 駐 車 場: 有り
はじめに
- 海岸線から意外と遠いところに位置していた。下北半島方面から向かったので(東から西へ)、海岸線と平行に走った。
- 左(南)へ平野が奥まって広がっていて、扇状地には見えなかった。縄文海進の頃は、入江のようになっていたのではないか。(後ほどそれは間違いとわかる)


- 立派な施設で駐車場広い。館内へ入ると、展示室と屋外エリヤへとつながる通路があり、先ず、屋外へ。
大型掘立柱建物跡
- 直径1mの栗の木の柱と、4.2m間隔の穴から、復元されている。でかい。敷地はフラットで広い。居住スペースとその周りに栽培した栗の林がある。
- 文明とは言い難いが、1500年間という長期に渡り存在し、500人程の集団が狩猟や栽培をして暮らしていたという。

大型竪穴住居(共同住宅)
- 意外とジメジメ感は無く清潔な感じ。しかし、照明が無ければ暗かっただろう。

さんまるミュージアム
- 館内に戻り、さんまるミュージアム(展示室)へ。
- 縄文時代は「5000年もの長期間、維持された」と記憶してた。また、「永遠に持続可能な縄文文化」とか言われていたが、実際に三内丸山遺跡が続いたのは、1500年間。5000年には遙か及ばないが、それでも非常に長いことは事実。
- 一世代を仮に30年とすると、50世代も続いたことになる。このように狭いエリヤで、何世代も同じように暮らすというのは、気候・食べ物・社会性・外敵がない、内紛がないなどの条件の他に何が必要なのだろうか。



- 館内の展示物は撮影OKだった。また、入り口の女性職員の方に、いろいろ質問したら、そのたびに、展示物のところまで足を運んで、丁寧に教えてくれた。
- 閉館ギリギリに来たにもかかわらず、全く嫌な顔をせず、この変なおっさんのしつこい質問に対応をしてくれて、本当にありがとうございました。
- 質問して分かったことは、次の通り。
遺跡が消滅した理由
- この遺跡の始まりのいきさつは不明だが、終わりの理由はハッキリしており、「寒冷化」とのこと。また、当時の海岸線については、縄文海進が終わり、現在の海岸線とほぼ同じの状態で、ここの集落が始まったとのこと。
黒曜石
- 矢じりに使われる黒曜石を約1000点を分析した結果、北海道産と長野産と判明。(1997年朝日新聞記事によると、「出土した3万点ほどの黒曜石のうち鑑定結果が出た87点の中で、ブーメランのような形をした矢じり3点が長野県諏訪市の霧ケ峰産と判明した。」とのこと。)
丸木舟で交易
- 彼女によると、富山県の丸木舟で交易をしていたとのこと。九州産は?(黒曜石は、日本列島でもう一か所、九州で取れる)と聞いたが、それは見つかっておらず、そこまでの交易ができなかったのではないかと言っていた。(たった3点の発見で、交易とまで言い切れるかな?)
- 私は更に、鬼界カルデラの噴火後、まだ西日本が立ち直っていなかったのが要因ではないかを尋ねたが、それについては回答をもらえなかった。気象など、分野の違うことに対して研究対象が向けられていない。(興味もない?)様子だった。


- 土偶や土器は、作った人の指先の表情(でこぼこ)が見られる。その人はその時、何を思い、願い、祈り、作ったのかな。
遮光器土偶
- 用途について聞いてみたが、「分からない」とのこと。展示のコメントでは「当時の人が祈りに用いたのだろう」と。展示されている説明の表現が実にやさしく、ぬくもりを感じた。ここを研究されている方々の人柄が感じられる。
やさしく対応して頂き、感謝
- 駆け足で外を回り、展示室ではうるさくいろいろ尋ねたが、やさしく対応してくれて、ネット等では知りえなかった情報を得られたので、非常にうれしく、閉館ギリギリに無理して来て、ラッキーで得した気分。
- 本当にありがとうございました。