【 もくじ 】
古墳概要
- 古墳名称 : 安倉(あくら)高塚古墳
- 所 在 地: 兵庫県宝塚市安倉南1丁目
- 築造年代 : 4世紀後半
- 被 葬 者: 不詳
- 形 式: 円墳
- 古墳規模 : 高さ2.7m、直径17m
- 石 室: 竪穴式石室
- 出 土 品: 銅鏡2枚、小玉、管玉、鉄製品
古墳現状
- 住宅街の県道工事で、古墳の大半を無くしている。
- 残った部分を、土砂流出防止のため、モルタルで被覆養生されている。
- 道路右手の石積み擁壁のように見える壁の右側が残存する古墳の一部
- 古墳説明板
- 古墳上部にコンクリート被覆養生がされている
- 石の扉の所には、右側の石柱に、「紀元壹千年頃古墳」と彫られている。
- 築造当時なものなら「頃」とは書かれないだろうから、近年誰かが彫ったものと思う。
赤烏7年銘の神獣鏡
- 出土品の銅鏡2枚のうち1枚は、中国三国時代の呉の年号がある。
- 赤烏7年は244年で、卑弥呼が魏に行った239年に近い。
- 呉の年号が入った銅鏡の出土例は、国内で2例しかない。
- 他では、山梨県の烏居原狐塚古墳から、赤烏元年の鏡が発見されている。
倭国の当時の情勢
- 倭国の卑弥呼は、中国の三国時代に魏へ朝貢したのは、魏が勝つという確信ある情報を得たからに違いない。
- もともと倭国は、呉の末裔という説もあり、長江下流域から朝鮮半島、日本列島までの倭人を倭国と言っていたらしいので、当然呉との交流が深かった。
- しかし、魏が統一するとなると、魏と親しくなるしかないし、渡来の人が多い中で、呉と通じているように見られることも恐れたのではないか。
- 現在、呉との交流の証拠品が無いのは、当時持つ意味がなくなり捨てられたからなのか。
安倉高塚古墳の価値
- 規模が小さいので、ネットでは低い評価が多いが、その小さな規模で、赤烏7年銘の銅鏡が出土した事実は大きい。
- 小さいために、盗掘からも逃れられた。
- 年号から古墳築造までの約百年は?
- 「呉が滅亡し、価値がなくなった銅鏡を捨てるのも惜しく、お爺さんのお墓にでも入れておこうか。」とか。
- 想像は尽きない。