雷電神社(群馬県邑楽郡)|本殿の掘り物は東照宮バリ。なまずさんのパワーは凄い!!

本殿の彫物
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神社概要

神社名称 : 雷電神社、(別称)上州板倉 雷電神社 総本宮

住  所 : 群馬県邑楽郡板倉町大字板倉2334

祭  神 : 火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)、大雷大神(おおいかづちのおおかみ)、別雷大神(わけいかづちのおおかみ)

創  建 : 598年

駐車場  : 神社北側に、30台程度(無料)

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藤竝神社(和歌山県有田川町)|147年武内宿禰が勅命を奉じて水主神を勧請した

本殿
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神社概要

神社名称 : 藤竝神社

住  所 : 和歌山県有田郡有田川町天満722番

祭  神 : 菅原道眞朝臣、水主神(みずしのかみ)

創  建 : 147年

駐 車 場: 有(数台)、無料

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御香宮(ごこうみや)神社(京都府伏見区)|御香水、遠州の石庭など見どころ多い

遠州ゆかりの石庭

神社概要

神社名称  : 御香宮(ごこうみや)神社

住  所  : 京都府伏見区御香宮門前町174

御 祭 神 : 神功皇后、仲哀天皇、応神天皇

創  建  : 862年「御香宮」、それ以前は御諸神社と称した

アクセス  : 近鉄桃山御陵前駅の東側すぐ

駐 車 場 : 24時間のタイムスがあり、90台収容(有料)

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新池埴輪製作遺跡(大阪府高槻市)|日本最古で最大の埴輪製作工房が当時100年間続いていた!

焼き窯

遺跡概要 

遺跡名称  : 史跡 今城塚古墳附 新池埴輪製作遺跡

住  所  : 大阪府高槻市上土室1丁目

敷地面積  :約3万㎡

作られた時期: 450年頃(今から1,500年前)

展示物  :斜面を利用した窯群、窯をそのまま展示、埴輪(本物)レプリカ

アクセス

太田茶臼山古墳の北方向、名神高速道路をくぐり、「上土室」市営バス停からすぐ。南西約300mに「八幡大神宮」がある。そこの看板に、「土室とは、ハニ(粘土)のムロのことで、埴輪を作る人たちが住んだ場所」と説明されていた。

ハニワ工場

埴輪工場館

埴輪工場館内部

焼き窯
ハニワ工場館の内部

今城塚古墳の埴輪を製作した、新池遺跡最大級の18号窯を当時のまま建物で覆い、展示してある。入場無料。

館内には、当時の埴輪の本物が3基ガラスケースの中に展示されていた。

本物の埴輪

歴史年表

三島地方の出来事

日本・朝鮮半島・中国の出来事

この年表は分かり易い。

埴輪工房の復元

とにかく、広いのが特徴
構造や建て方の工夫など

窯の復元

1号釜、2号釜

写真でみるよりも急斜面を利用して作られており、今も実際に使われている丹波の立杭焼きの登釜によく似ていると思う。それの原形のようで、驚いた。

その他の窯

3号窯の発掘調査中を復元
斜面を利用した窯跡

ツツジの植栽のように見えているのが窯跡。煙突状の窯の中を熱が上に伝わり、効率良く沢山の焼き物を焼くことができるということかな。

ハニワ工場公園

窯の復元、工房建物など大規模な敷地全体をそのまま公園となっており、ゆっくり散策できる。

全体図

工場公園にハニワがならべてある

 

 

 

 

闘鶏野(つげの)神社(大阪府高槻市)|古墳群丘陵地帯で、参道は名神高速道路のオーバーブリッジ!

闘鶏野神社

神社概要(闘鶏野神社)

神社名称 : 闘鶏野(つげの)神社

住所   : 大阪府高槻市氷室町6丁目

御祭神  : 天照大御神、応神天皇、天児屋根命

創建   : 不詳(背後にある闘鶏山古墳は、4世紀頃の築造とされる)

アクセス : 名神高速道路の北側側道の行き止まり

南側住宅街の鳥居をくぐり、徒歩でオーバーブリッジを進む

駐車場  : 西側に少しスペースがあるものの、バリカーがあり利用不可

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空白の4世紀を整理してみる|神武の東征、卑弥呼、神功皇后etc.

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歴史年代

57年   後漢へ朝貢し、光武帝から金印「漢委奴国王」を授かる。

2世紀後半 倭国大乱

229年  魏が、クシャーナ朝に「親魏大月氏王」の金印を贈る。

237年  呉より、「赤烏元年」の銘の銅鏡を授かる(山梨県、鳥居原狐塚古墳)

239年  卑弥呼が魏へ朝貢し、「親魏倭王」の称号と金印を授かる。

244年  呉より、「赤烏7年」の銘の銅鏡を授かる。(兵庫県宝塚市、安倉高塚古墳)

248年  卑弥呼死去、台与を女王とする。

266年  魏が滅亡、晋が起こる。

266年  台与、使者を西晋へ、朝貢。

271年  垂仁天皇即位

300年  匈奴が中国へ進入

366年  倭、百済と同盟を結ぶ

367年  半島へ出兵

390年  神功皇后没

390年  応神天皇即位

金印を授かる

卑弥呼が魏へ朝貢し「親魏倭王」の称号と金印を授かっている。魏は、大月氏に対しても、金印「親魏大月氏王」を贈っている。つまり、敵対していた呉を牽制する目的で呉の西と東に位置する両国と友好関係を結んだ。

邪馬台国の卑弥呼は、本来倭国とは、呉(春秋時代)の国から渡ってきた人たちの集団であり、呉(三国時代)と親密にすべきところだろうが、三国の力関係や情勢をよく見て、苦渋の決断をしたことだろう。

呉は、この前後にすかさず、対置式神獣鏡を「赤鳥元年」と「赤鳥7年」に倭国に送っている。送り先は、邪馬台国と対立していた「狗奴国」だろうか?

東征の理由

仮説1.火山活動により、住めなくなった

大分市の鶴見岳・伽藍岳が1,800年前ごろに噴火している。九州一帯の火山活動が同様に活発になっていることから、生活の基盤を失った地域があったものと思われる。

仮説2.森林伐採が進み、土地が痩せてはげ山状態になった

竹村公太郎氏の「地形と日本文明」という講演を拝聴した際に、紹介された内容によれば、記念構造物築造のための伐採を続けていると、はげ山化し土地が痩せ、作物も取れなくなる。九州もそういう状況にあり、奈良盆地が湖があり周りに豊富な森林があり、豊かでああったから、塩土老翁(しおつつのおじ)が「良き土地」といって進めたためとある。

仮説3.卑弥呼が亡くなった後の不安定な状況から

倭国大乱の後、卑弥呼が女帝となり治まったが、その卑弥呼が無くなると、またしても不安定となった。小国同士で混沌とした中で、磐余彦が東征を果たし、先行して納めていた饒速日の功績を利用して、大和進出を果たした。

東征の時期

日本書紀では、建国時期は、中国と同等に古いこととしたかったので、BC660年とした。すると天照大神はもっと古くなり、いろいろ矛盾が出てくるので、曖昧な表現にとどめた、のではないか。

塩土老翁(しおつつのおじ)

万葉集では「墨吉(すみのえ)の人」とされ、住吉明神として、大阪府の住吉大社で祭られている。そのお顔は玉手箱を開けた老翁にそっくりとも、、、。ちなみに、乙姫は、瀬織津姫であり、饒速日命の妻とされ、三島明神(現大山積神)である。また、饒速日命は天照大神と同一とする説もあるようだ。(ちょっと意味が深そうだが、開設できないので、さらりと流します)

神功皇后

神功皇后は、仲哀天皇の皇后という実在の方ではあるが、熊襲征伐や朝鮮遠征を身重の時期に大勝利させるなど、超人的な功績を上げていることから、その功績は架空ではなかとも言われている。

 

 

 

神功皇后の朝鮮遠征から白村江の敗戦、日本成立までの歴史を考える

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何故、邪馬台国と卑弥呼のことがわからないのか

古事記・日本書紀は天武天皇の命で編纂され、720年に完成。

古事記は大和言葉で国内向けに、日本書記は漢文で国外向けに書かれた。

当時倭国は、「白村江の戦い」で敗れ、間接的に唐と敵対することになってしまったが、本格的な敵対関係は避けたいことから、新たに「日本」という国が倭国とは関係ない別の国として統一したことにした。そこで、いろいろぼやかした表現で国の成立を表現しているので、特に、「空白の4世紀」といわれる時代が不鮮明になっているのではないかと考える。

神功皇后の熊襲征伐と新羅遠征

366年に倭国は百済と同盟関係を結び、翌367年から約300年間、朝鮮半島に遠征した。一小国がそれほどの長期にわたる海外遠征を実行できるわけがなく、倭国が統一国家として成り立っていたことが伺える。

そして、それが神功皇后の功績として日本書紀にも書かれている。

白村江の敗戦

663年、倭国・百済は新羅・唐連合軍に敗北し、百済が滅亡した。(倭国水軍400隻は燃え上がり大敗した)

この戦いでは、倭国は直接は新羅との戦いであり、唐は間接的な敵であったが、唐軍は北九州に上陸し駐留した。

日本国は倭国と別種

倭国を日本国と改名し、近江に遷都し、古事記・日本書紀を編纂して、倭国とは別の国で、なおかつ、中国に引けを取らないくらいに古くからの伝統を引き継いだ国であるように示そうとし、「倭国とは別種なり」と認めさせ、成功している。

倭国と不連続にしたことで、邪馬台国や卑弥呼がわからなくなった。