【 もくじ 】
神社概要
- 神社名称 : 百濟王(くだらおう)神社
- 住 所 : 大阪府枚方市中宮西之町1-66
- 祭 神 : 百濟王
- 創 建 : 693年頃
- 駐車場 : 鳥居横と百濟寺跡地公園に数台
由緒
- 奈良時代に百済王氏の祖霊を祀る神社と百濟寺が創建されたと思われる。現在の神社の建物・石造物はすべて江戸時代中期以降のもの。
- 663年、百済・倭国は、新羅・唐とに戦いに敗れ、百済は滅亡した。そのため、百済国王第30代義慈王(ぎじおう)の子、善光(ぜんこう)は日本に帰化し、「百済王(くだらのこにきし)」の氏族名を賜った。
- これを機に、ここ河内国交野郡に居住し、氏寺と神社を建立した。
- 進雄命(牛頭天王)が合祀された由来はわからないらしい。
鳥居
境内
拝殿
本殿
若宮八幡宮
相殿
稲荷神社
浮島神社
百濟寺跡
- 隣接して、百済寺跡が整備されている。(工事途中、終盤)広い。大規模な伽藍であったことがわかる。
- 公園入口、この付近が駐車スペースで数台は置ける。
百濟関連歴史年表
(掲示されていた年表の記述による)
- 239年 倭国の卑弥呼が魏に使者を送る。
- 372年 百濟が倭国へ、支援を要請。その返礼として七支刀が献上される。
- 391年 倭国軍が百濟・新羅と連合し、高句麗と戦う。
- 6世紀頃 枚方になじみの深い継体天皇以前から、大陸と朝鮮半島との行き来があり、枚方は倭国の出征の兵站(へいたん)基地としての役割を担っていたと考えられる。
- 朝鮮半島は三韓時代で、日本列島との国境のない時代であった。半島から多くの来朝者があり、百済から、インドの仏教や、中国の漢字が伝えられた。
- 663年 白村江の戦いで百済が滅亡し、難波に多くの難民が渡来した。また、九州沿岸・瀬戸内海・難波に多くの軍事拠点を築いた。
- その頃、高句麗も滅亡し多数の亡命者が渡来。
- 680年頃 この頃まで、唐・新羅の襲来に備えていた。
- 9~10世紀 これから何百年かの後には、百済一族の家臣もこの地から散逸し、祠はその由来を知る人はいなくなり、「土地神様」となっていった。
まとめ
古墳時代には、茨木~高槻の丘陵地帯に古墳群や埴輪工房跡があるが、古墳時代やその後も、枚方辺りが兵站基地となっていたことがわかった。訪れて初めて知ったことに感動した。
社務所のお方が、「よう、お参りです。」と言って下さり、寒い日だったけど、心がホットした。ありがとうございました。
200円の「御由緒書き」をいただきました。