【 もくじ 】
施設概要
- 施設名称 : 日本中央の碑保存館
- 住 所 : 青森県北上郡東北町字家の下夕39-5
- 主な展示物: 「日本中央の碑」石碑
- 訪問時期 : 2017年
日本中央の碑記念館
- 青森県下東北町の国道4号線に面した所にある。
「日本中央の碑」
- 以前、本で知っていたが、偶然に通りかかり大きな看板が目に入ったので、寄ってみた。知識が曖昧で場所をよく知らなかったので、まさか、「日本中央」がここまで北の果てとは知らなかった。
- 木造のこじんまりとした、新しく綺麗な建物。中に入ると、
- 建物のほぼ中央に、高さ約1.5mの石碑(吊るし柿を逆さにしたような形)が展示。
- その石の真ん中に確かに「日本中央」刻まれているのが見える。その周りにに、資料が並べられている。
「つぼのいしぶみ」
- 「9世紀初頭、征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷征討の際、弓の筈(はず)で石に『日本中央』と掘り、建立した。」というもの。それが都に伝わり、歌枕とされた。
- この石は、1949年6月に青森県東北町千曳で偶然に発見された。
- パンフレットや、展示資料には、「日本中央」の「日本」は、「ひのもと」と読み、蝦夷地を指す呼び名で、大和政権の力が増し、蝦夷征討軍が北進するにつれ、その地は徐々に北へ追いやられた、と記載されている。
- 陸奥の最奥の地、「都母(つも)」で発見された石碑の、地名の発音が「つぼ」に変化したのだろう、とされていた。
坂上田村麻呂は当地に来ていない
- またしかし、坂上田村麻呂は、現在の岩手県水沢付近までしか行っていないことがわかっており、もし、本物であても、坂上田村麻呂ではなく、次の征夷大将軍ではないかとのこと。
- それと、ケチをつけると、千年以上たっても風化がほとんのない程の硬い石に、矢で文字を掘ったというのは、無理があると思うが、どうでしょうか。
有識者による鑑定
- 昭和25年、新たに歴史家による鑑定が行われた。4文字の外側にうっすらと、もう一つ4文字の彫刻を見ることができるという。彫った文字が消えそうになるころに、再度文字を彫刻したとなると、最初に彫った時期は、どれほど古いのか。少なくとも1200年~1300年前のものであろうとのこと。
- また別の鑑定では、室町時代の頃の書体であるという。どっちがただしいのか?
多賀城碑
- 宮城県の多賀城跡にある「多賀城碑」も、「つぼのいしぶみ」と言われている。これは、松尾芭蕉が多賀城跡を訪れており、つぼのいしぶみであるとして、奥の細道で紹介したことによる。
- 国道に面して、看板がすぐ目に入る。駐車場は広く無料、入館料も無料。