【 もくじ 】
古墳群概要
- 名 称 : 百舌鳥・古市古墳群
- 所 在 地: 大阪府羽曳野市誉田、藤井寺市藤井寺
- 形 状 : 前方後円墳、円墳、方墳
- 築造年代 : 5世紀~6世紀
- 特 記 : 百舌鳥古墳群と合わせて世界遺産に。
- 古墳時代、3世紀頃から奈良・飛鳥に三輪山を中心とした大和王権により古墳が造営された。それが、4世紀中頃から6世紀にかけては、百舌鳥・古市に100基以上もの(世界遺産に登録されたものだけで49基)もの古墳が造られた。
綾南の森資料室
- 現地と綾南の森歴史資料室を見ると全体像や歴史について理解を深めることができる。
- 公民館・福祉センターに入ってすぐ左手の1室に資料が展示されている。
- 旧石器時代今から1万8千年前の旧石器製造跡があった。ということは、人々が社会性を持った集団生活を営んでいたということ。
- 二上山の麓で採れるサヌカイトという岩石からナイフを加工していた。縄文時代の三内丸山遺跡や是川遺跡では、北海道や長野県産の黒曜石から加工した石器が出土している。(時期はこちらの方が断然に古い)
袈裟襷文銅鐸
- 高さ89cmの銅鐸。
- 銅鐸工房は茨木市や八尾市にもあり、畿内で盛んに銅鐸が作られたことが伺える。
- 銅鐸の他にも馬具や装飾を施した鞍などが出土。朝鮮半島との闘いの際に先方の騎馬戦に圧倒されていた。
- 四条畷市で発見された馬の牧場跡からも、急速に力をつけていったことがわかる。
渡来系氏族 西文(かわちのふみ)氏
東(やまと)漢(あや)氏
- 応神天皇の時代に百済から渡来し帰化した氏族で飛鳥に住み大和王権で要職についた。
野々上遺跡、土製仮面
- 野の上遺跡から出土した土製の仮面。「能」の面につながる雰囲気がある。8世紀ということは相当時代が飛んでいるが、文化的にも高い水準の人たちが絶えずいたことになる。
雄略天皇陵
- (丹比高鷲原陵(たじひのたかはしのはらのみささぎ))宮内庁は雄略天皇の墓としている。円墳としては、古市古墳群の中で最大規模。雄略天皇は、倭の五王「武」にあたるとされている。
- 所在地:羽曳野市島泉
允恭(いんぎょう)天皇陵
- (恵我長野北陵)倭の五王「済」にあたるとされている前方後円墳。墳長約230m、所在地:藤井寺市国府。
- 駐車場はバリカーが設置されて使用不可。車は近くのコインパーキングに止めましょう。
古墳の種別(世界遺産に登録されたものに限る)
前方後円墳 | 方墳 | 円墳 | 帆立貝型墳 | |
古市古墳群 | 13 | 11 | 2 | 0 |
百舌鳥古墳群 | 7 | 3 | 4 | 7 |
古墳時代の背景
- 古墳時代は3世紀中頃に三輪山周辺の奈良に始まり、4世紀中頃~6世紀頃まで百舌鳥・古市に移りその後は奈良に戻っている。
- 日本国内には、20万基以上の古墳がある。その中の100基余りとなる。しかし密度となると、他の群を抜くと思われる。それを100年余りで築造したのは、勢力・財力・政治力なのだろうか。
古墳造営が集中した理由
1.多くの労働力と技術力が必要
- 仁徳天皇陵:体積140万㎥の場合、仮に25人/㎥必要とした時、1万人/日が11年かかる。また、その人たちを養う食糧を作る人、生活を確保するために必要な人、管理する人が必要。
- 埴輪など土器や、銅鐸などを作成する人、副葬品にも用いられた物(馬具や飾り物)などを作る人
- 四条畷市にには馬の牧場跡が見つかっており、騎馬戦に備えて馬を育て調教する人
2.労働力としての朝鮮半島からの技術集団の渡来
- 半島から帰化人が渡来した時期について
- 紀元前2~3世紀(中国、秦以前の戦国時代)
- 5世紀前後(中国、三国時代に戦いに敗れた王家など)
- 5~6世紀(半島の情勢が不安定)
- 7世紀(白村江の戦いの後、百済・高句麗の人々)
- このうち②の応神天皇の時期が最も多く、秦氏3~4万人が九州に渡来したという例がある。
- 秦氏(はたうじ)・漢氏(あやうじ)・文氏(ふみうじ)に代表される渡来人が東(やまと)、西(かわち)と名の付くように、大和・河内へ多く渡来した。
3.古墳築造の理由の仮説
普通に考えると征服王朝の交代があげられるが、実際には遷都はあったが王朝の交代はない。そこで私は仮説として、墳墓の造成が必要なくなったか。
② 百舌鳥・古市古墳群は、かつての湿地帯であり古墳築造のための盛土材には、その周辺の掘削土を利用していることから、灌漑用の池や水路等の建設工事の残土を利用したのではないか。(これは根拠なし)
③ 4世紀末から5世紀にかけて半島から渡来した人々は、農耕技術や鉄製農耕器の製造技術をもたらし、効率良く耕地や住宅地の造成を行った。(とは言え、人力作業である)
*次は、仁徳天皇陵のそばにある堺市博物館を見たい。